ココロスケッチ

星に重ねるココロ ここからミエル全て ミエルままに描く

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 |

正しい音

 友人から「実はお前とはカラオケ行きたくなかった時期があった」と告白された。

 どうやら、其の友人が歌っているときに、私が首をかしげたり、どうもつまらなそうな態度を取ったりしたことが原因らしい。

 自覚が全くなかっただけにショックを受ける。

 私は歌うことがものすごく好きで、好きで、それで少しでも上手くなりたいと思って、練習して、練習して、ようやく最近では少しは自分なりに納得できる歌が歌えるようになってきたかなぁ、という風に思っている。けれど、まだまだだなぁ、とも同時に思っていて、たとえば他の人の歌を聴いて「こいつ下手だなぁ」なんて思ったことがない。むしろ羨ましくなることの方が多くて「どうしてこんな高音が出るんだ」とか「どうしてこんなに自分をさらけ出せるんだ」と、常に自分との距離を測ってしまう。

 それはそれで何だか卑しいから、出来るだけ自分は自分、他人は他人と思うようにしているのだけれど、どうしてもやっぱり羨ましがったりしてしまう。

 そんな自分なのに、他の人から見るとどうやら「俺は歌、上手いんだぜ」と自慢げな風に見えるらしい。いや、見えているんじゃないか、と勝手に私自身が思っているだけなのだが……。

 だから今回のことも、なんだかショックで、しばらく頭から離れないくらいショックで、とはいえ悪いのは自分なので、原因を考えて、頭の中を探し回ったりもした。

 それで少し思い当たったのは、其の友人とカラオケに行くとついハモりたくなって(自信がないから)マイクを使わずにハモってみるのだけれど、結局やっぱりハモれなくて、首を傾げることは確かに何度かあって、其れを見た友人が勘違いしたのではないか、という憶測である。

 でも、あくまでも推測の域を出ない。

 もしかすると、心の深い場所で友人の歌をけなしているのかもしれない。そうなると、自分が極端に矮小に思えてくる。そんな調子で、歌を好きだなんてよく言えたもんだ、と。

 ここで別の話。

 先日別の友人とカラオケに行った際、友人が英語の歌を四回歌った。練習したかったんだろう。別に四回歌ったっていいとは思うのだけれど、ついイジメたくなってしまって、四回目が終わったあとで「お前、英語の発音がまるでなってないよ」と言った。
「人前で其れは歌わないほうがいいよ」とも。
 すると友人は、不機嫌になってしまって、それからのカラオケが全く楽しくなくなってしまった。よせばよかった、と、後悔は先に立たず、其れからは何を言ったって不機嫌な様子は治らない。

 もちろん冗談で言っているのだけれど、100%丸々冗談かと問われれば、そうとも言い切れず、本心だって少なからず潜んでいるわけで。
 英語の発音なんて下手だろうが何だろうが別に構わないし、普段はそうやって気にも留めていなかったのに、其の時だけは四回同じ歌を歌うっていうことに対して少し嫌悪感を抱いたのかもしれない。其れで言わないでもいいことを口走った。

 深く反省。

 私は「歌は人に聴かせるものであり聴かれるものだから、無責任には歌いたくない」と思っている。自分が歌いたいように歌って、周りが白けてしまっては歌うことの意味は少しもないと思う。だから、つい他人にも其れを強要してしまうところが、もしかするとあるのかもしれない。英語の一件は、まさに其れを如実に表している。

「正しい音」が出せるようになりたい。でも誰かに「正しい音」を求めてはいけない。

 もし仮に誰かに「正しい音」を求めながら歌うとしたら、例え自分の出す音が「正しい音」だとしても、それは間違った音になってしまう。

 そんなことを思った。

 そして二人の友人には、本当に申し訳なく思っている。


テーマ:日記 - ジャンル:日記

日記 | コメント:1 | トラックバック:0 |

失言だろうか

【失言】

?言うべきでないことをうっかり言ってしまうこと。また、其の言葉?(Yahoo!辞書より抜粋)

 松本人志が失言をした、とネットで話題になっているらしい。これもYahoo!ニュースから其のまま抜粋する。
 

 お笑いタレントの松本人志さん(44)が、出演したラジオ番組で、相次ぐ硫化水素自殺者について「問題発言をした」とネットで騒ぎになっている。ラジオでの放言、暴言では、歌手の倖田來未さん(25)が「35歳になるとお母さんの羊水が腐ってくる」と発言したのが記憶に新しい。倖田さんはその後芸能活動をしばらく自粛している。

■ラジオ番組でマスコミも批判

 松本人志さんが「問題発言」したのは、2008年5月11日未明に放送されたTOKYO FM系(JFN)のラジオ番組「放送室」。松本さんと放送作家の高須光聖さん(44)がパーソナリティをしている1時間のトークバラエティで、番組の後半に入ったところで硫化水素自殺について語る場面が出た。

 まず、松本さんが、「いま自殺もはやっているでしょ」と話題を振った。そして、「何かよう分からん。なんや、あれ。なんか液体の、あれやわ、ガスみたいな」と言葉に詰まると、高須さんが、「硫化水素やね」と助け舟を出した。

 松本さんは、相槌を打つと、マスコミに不満をぶつけた。

  「ニュースが面白がってんねん。今日は何件あったとか、やっとるわけよ。もうええねん、もう一切そのニュースはなし」

 さらに、「自殺なんてね。報道すればするほど、あいつら寂しいヤツらだから、俺も死のうって思うヤツがたくさん出てくんねん」と批判した。

 そして、「問題発言」とされたのは、松本さんの次の発言だ。

  「まあ、ある意味ね。ちょうどええ時期に、そんなアホが死んだら別に俺はええねんけど」

 こうした会話で、2人は盛り上がった。高須さんが「ええこと言ったね、松本さん」と水を向けると、松本さんは、「ほんとに間違ってないわ、俺らはね」とうれしそうだった。

■ニコニコ動画にも投稿

 松本人志さんのこの発言は、早速2ちゃんねるで話題になり、それを紹介するスレッドが立った。そこでは、次のような批判の書き込みがあった。

  「アホとか何様だよ」
  「これは倖田くみの発言より問題だろ」
  「何がちょうどいい時期なのかわからない 松本は最低だなカスだ」

 発言のあった「放送室」の録音は、ニコニコ動画にも投稿された。そこでは、すでに1万3000回以上が再生され、1400以上のコメントが付いている。
 一方、松本さんが硫化水素自殺についてマスコミ批判した部分については、共感する書き込みも多い。

  「その通りだ」
  「まぁ確かに硫化水素とかヒント出すから 皆マネをする」
  「途中までは言いこといってるのにな」

 松本さんは、議論が盛り上がっている途中で脱線して、うっかり発言をしてしまったということらしい。倖田來未さんの「羊水腐る」発言のように、ネットでは、「問題発言」がだれかの手で拾われて一瞬のうちに広まるようになってきている。

 J-CASTニュースでは5月12日、松本さんの所属事務所の吉本興業東京本社に、この「発言問題」で取材を申し込んでいる。



 此のニュースを読んで考えることはきっと千差万別だが、多くの人は記事中の2ちゃんねるへの書き込みと同じように松本人志の発言は「失言」だと捉えているのだろうか。

 私個人の意見としては、此の発言は全く失言などではない。一つ冷静になって考えなければならないと思うのだが、松本人志はただ「自殺者」をアホだと言っているわけではなく「硫化水素で自殺する者」をアホだと言っているという点だ。

 硫化水素での自殺は他人を巻き添えにする危険が大きい。事実、巻き添えを食って病院で手当を受けた人は、合わせれば数百人規模にも上る。こんなふざけた死に方はない。断定的な言い方は出来ないが、硫化水素で自殺する人間は「苦しまずに死ねる方法」だから、此の方法を選ぶのだという。私は、自分ばかり楽して死にたいなどと考えて、他人に迷惑をかけて死んでいく者に何の同情も持ち得ない。

 確かに松本人志の発言は「アホな奴はどんどん死んでいけばいい」という意味にも捉えられかねない危険性は含んでいるものの、額面通り受け取れば「硫化水素なんかで死ぬような奴は、勝手に死んだらいい」という意味だと私は思うのだが……。

 かつて松本人志は著書の中で「自殺は同情するから増える。自殺する奴はアホだ、と誰かが言ってやらないと減らない」という意見を示しました。だからこそ、彼は敢えてこういう発言をしたのだと考えれば、決して自殺者を増長させる目的ではないという結論に達するはず。


 最後に――。本筋からは外れるが、こうして硫化水素自殺が多発している現状に、とてつもない恐ろしさを感じるのは私だけだろうか? 何かが起こればすぐに束になって批判をする2ちゃんねるの書き込みにも、同じ恐ろしさを感じる。

テーマ:日記 - ジャンル:日記

日記 | コメント:0 | トラックバック:2 |

ひとかど

 先日、バイト研修に参加した時の話をしようと思う。

 バイト先の大手ドラッグストアでは、今年の四月から新しい部署が立ち上がり、バイト育成を目的とした研修セミナーが継続的にひらかれることとなった。その記念すべき第一回目の研修セミナーに、私が働く店舗からは三人のバイトが選ばれた。

 私も其の中の一人に選ばれて、光栄と言えば光栄なのだが、セミナー自体には期待が持てずにいた。これはあくまでも私見なのだが、会社は迷走をしている。進むべき道を見失っている。具体例を挙げることは容易いが、企業機密に関わることもあるだろうから、ここには書かない。しかし、個人的には確信を持って会社が危険な状態だと思っているのだ。

 当日――会場の部屋に入ると、まだ参加者は一人しか来ておらず、主催者側の姿はどこにも見当たらなかった。入り口から二、三歩の距離に長方形の机が置かれており、上には一枚の用紙が乗っていた。

「参加者は店名と氏名を記入すること」

 私たちはそれに従う。すると、ちょうど私が記入しようとしたところで、主催者と思しき男の人が後ろからやってきた。彼は私たちに「おはようございます」と丁寧にお辞儀をした。快活な声だ。慌てて私も挨拶と会釈を返す。自信に満ちた彼とは対照的に、私は酷くオドオドした態度だったろうと思う。其の差に軽く凹む。

 記帳を終え、席に着くと緊張が襲ってきた。見られている感覚を抱くと人間は少なからず緊張するものだ。しかし実際には私のことを見ている人など、いないのだ。主催者側だって、そうまじまじと細かく私たちのことを観察しているわけではない。そうは分かっていても緊張してしまう。そんな頼りない自分に軽く凹む。

 定刻になり、セミナーが始まった。其の頃には主催者側も三人になっていた。どうやら、最初に私に挨拶をしてくれた人がメインになってセミナーが進むらしい。不便だから、彼のことを今後Sさんとする。
 Sさんは、私たちの緊張を解くために時にはジョークを交えながら見事な話法で話を進めていく。修辞を随所に織り交ぜ、声のトーンにも気を使い、退屈させずに要点をつまみ上げ、まるで私たち一人一人と会話をするかのように、講演するのだ。

 接客スローガンを読み上げるところではわざと間違えてみせた。「1st」を「イチスト」と読んだ。それからすぐに訂正して「違いますね。これはイチストではなくてファーストですよね」と。それからこう続けた。「皆ね、私のことを『ファーストをイチストって読むなんてバッカだな?』と思ったでしょ? でもね、こうやって一回わざと間違えるとね、覚えるんですよ」

 まさに、其のとおり。事実、私は未だに其のスローガンを覚えている。英語の、覚えにくいスローガンにも関わらず。
 そうしてセミナーの三時間はあっという間に過ぎた。楽しかった、ということだ。
 けれど楽しいだけではなく、新しい発見もあった。もっとも理想的な形で、色々なことを学ぶことができた。

 ひとかどの人物とは、Sさんのような人を指すのだろう。私は会社に対する見方を少し変えた。確かに、会社は危険な状態にあるだろう。けれどSさんのような人物がいる限り、少しは未来に希望が持てるのではないか、と。

 さらに自分自身の不甲斐なさを思った。Sさんは恐らく、相当の勉強家だろうと思う。それも錐で穴を穿つような好奇心ではなく、あらゆることに興味を示す好奇心に基づいた、万能型の勉強家だ。自分も見習わなくてはならない。薄暗い部屋で寝起きするだけの自分であってはならない。

 本当に有意義なセミナーだった。此の場を借りてSさんには感謝の気持ちを伝えたい。

 ありがとうございました。

テーマ:日記 - ジャンル:日記

日記 | コメント:1 | トラックバック:0 |

Knock

『私は誰も入っていないトイレのドアをノックした』

 其のトイレには小窓があり灯りがついていれば一目で判るようになっている。もし人が入っているのならば灯りがついているはずで(何しろ其のトイレには小窓以外には窓がなく昼間でも灯りをつけなければ暗闇と化すのだ)逆を言えば灯りがついていなければ、其処には誰もいないということだ。

 にも関わらず私は灯りのついていないトイレのドアをノックしてしまう。

 小刻みに二回。コンコン、と乾いた音がする。

 なぜ、こんなことをしてしまうのかと云えば、其れは簡単に説明がつく。其のトイレのドアには「入るときにはノックしてね」と書かれているからだ。

 其のトイレはバイト先の倉庫に備え付けられたトイレで男女共用で使う。入る時に灯りをつけ、出るときには灯りを消せば問題はないのだが、中には其れが出来ない人もいて、灯りがつけっぱなしになっていることもある。
 そうなると厄介で、灯りがついているときは、私はノックをして人が入っているかどうか確認するのだ。

 ところが中には其れさえ出来ない人もいるのだろうか。いつからだったか、トイレのドアに「入るときはノックしてね」と書かれた紙が貼られた。
 屹度、其の張り紙をした人は突然ドアをがちゃがちゃされて何回か不快な目に遭ったのだろう。兎に角、或る日、其の張り紙は貼られていたのだ。

 勿論、私も馬鹿じゃないから、そんな張り紙が貼られたとはいえ、灯りがついていないドアをノックしたりはしない。人間は考える葦だから、幾ら「入るときはノックしてね」と書かれていたって、其の張り紙の本当の意味を正確に探し当て、人が入っているかもしれないから入るときはノックしなきゃダメなんだな、ということを理解するはずである。

 だから、灯りがついていないときは中には人など入っていないのだからノックする必要はまるでないのだ。

 にも関わらず私は灯りのついていないトイレのドアをノックしてしまう。

 なぜか。

 バイト先はドラッグストアである。一階と二階は全フロア売り場となっていて、三階と四階は倉庫になっている。お客さんが入れるのは余程の事情が無い限りは二階まで。倉庫には上がることはない。

 売り場から倉庫へと続く階段の手前にはドアが一枚ある。其のドアは売り場と倉庫を隔てた、表と裏を繋ぐ扉であり、特殊な意味を持っていると言ってもいい。
 とはいえ、バイト先では荷物を倉庫に上げたり、売り場へ下ろしたりする関係で、其のドアは今まで開けっ放しになっていた。

 其れをお偉いさんからの指示でドアを閉めるようになったのが最近のことである。まぁ、それも尤もと、納得せざるを得ない。倉庫に続く階段はとても汚いのだ。

 さて、其のドアをこまめに閉めるようになってから、其のドアには二枚の張り紙がされた。「必ずドアは閉めること」と書かれた張り紙と、もう一枚「売り場に出るときは必ずノックすること」と書かれた張り紙である。
 此の張り紙は効力を発揮するのは当然のことで、此の張り紙のおかげでほぼ全員がドアを閉めるようになったし、ノックするようになった。

 ここでようやく本題に戻る。私は仕事中、何回も売り場と倉庫を往復する。そしてドアを通るたびに開け閉めをする。当然、ノックする。
 一日に何回も、或いは何十回も。

 癖がついた。習慣とは恐いものである。

『私は誰も入っていないトイレのドアをノックした』

 惰性で生きている証明だ。全くもって恥ずかしい。其れ以来、私は注意するようになって、さすがにたった一度きり、其の失敗は一度きりである。

 とはいえ気を抜くと私は誰もいないトイレのドアをノックしてしまいそうになるのだ。

「誰かいますか?」
 勿論、返事などないのだ。

テーマ:日記 - ジャンル:日記

日記 | コメント:0 | トラックバック:0 |

意識 無意識

「割れたガラスが散らばっている。破片の一つ一つに自分が反射して映りこんでいる」

 覚醒の瞬間――無意識と意識の交換。眠りから醒めるとき、浮上する意識の途中で私は様々な景色を目にする。自分の中に存在している景色なのに、初めて見る。景色は細切れになっていて、さながらジグソーパズルのピースのようだ。

 組み立てようとしても縺れる。
 何が?
 意識が。

 無意識が描いた風景を意識が辛うじて捉えている。無意識と意識の交換が行われる、其の僅かな間だけ奇跡的に起こる現象なのだ。だから組み立てようとしても縺れる。

 無意識とは意識が無い状態のことを言うのではない。もちろん、意識の反対語などでもない。私にとっては生物のようなものである。蠢く。

「二人の自分が別のことを話している。其れを聞いている別の自分がいる。ああ、三人いる、と考えている別の自分がいる。本当の自分がどれだか分からない」

 意識と無意識の関係は月と太陽に似ている。月を見て狼男になるのは理に適っていると思う。
 太陽が出ているときにも月は存在している。けれど見えない。
 同じように、意識あるときにも無意識は存在している。けれど見えない。
 見えないのだから存在しないというのは其れは其れで真実である。だが恐ろしいことに無意識は時々、見える。

 幽霊とは無意識の別称であろう。死もまた無意識の別称であろう。だから幽霊というのは死者のことを指すのだろう。簡単な三段論法。

「馬が走っている。『馬だ』と叫んでいる人がいる。どうやら自分自身らしい」

 夢もまた無意識が見せるものだが、無意識が優位に立っているから安心できる。私が言っているのは無意識と意識の交換――眠りから醒める瞬間の奇妙な幽体離脱のことである。
 割れたガラスのことであり、四人の自分のことであり、馬のことである。
 なぜこんなにも恐ろしくなるのだろう?

 現実の世界も夢の世界も安心できる。其の二つの間に――恐ろしい世界が広がっている。そして、本当は其の間の世界こそ無限大の広がりを持った本当の世界のような気がしている。

 今朝、目が醒めて、こんなことを考えた。

テーマ:ひとりごと - ジャンル:日記

日記 | コメント:0 | トラックバック:0 |
| HOME | NEXT